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本能寺の変。
日本史史上最大のミステリーとも言われ、多くの説が言われています。
その中でも、近年最も有力視されているのが、「四国説」または「四国政策転換説」です。
今回は、四国説がどういったものなのかみていきたいと思います。
そして、四国説の裏のキーマンとしてあの秀吉が動いていたようです…
本能寺の変「四国説」とは?明智光秀を謀反に向かわせたのは秀吉!?
四国説とは?簡単解説!
当時、四国では阿波の三好氏と土佐の長宗我部氏とが領土を巡り、対立していました。
阿波の三好氏は信長とも対立していました。信長は、阿波の三好氏を抑えるため、三好氏と対立していた長宗我部元親を従え、三好氏と対抗させました。
その長宗我部氏との外交を任されたのが、明智光秀でした。
単に外交を任されただけでなく、光秀の重臣・斎藤利三と長宗我部氏とは姻戚関係にもあり、関係性は深いものだったようです。
少しややこしい話になりますが、利三の兄が室町幕府の奉公衆・石谷家の養子となっています。その養子に入った先の妹(義妹)が、元親の正室となっています。
また、その利三の兄の娘が、元親の嫡男に嫁いでいます。
信長は、長宗我部氏に対し、「領土は切り取り次第」と約束をしていました。
しかし、状況が変わります。
対立していた三好氏も信長に従うことになりました。
信長は長宗我部氏に対し、当初は「切り取り次第」としていた領土を土佐のみとし、その他の領地の返還を求めます。
これには長宗我部氏も納得がいきません。
また、長らく三好氏と争っていた長宗我部方の諸将たちの気持ちも収まりません。
そこで、信長と長宗我部氏の板挟みとなった光秀は斎藤利三を通じ、長宗我部氏と粘り強く交渉を続けます。
光秀の粘り強い交渉が実を結び、本能寺の変の10日前に、長宗我部元親は信長の命令に従うと書状を出しました。
元親は書状の中で、「これまで取り計らってくれたことは忘れない」と感謝の気持ちも示していたようです。
全ては丸く収まるかのように思いましたが、信長は、四国征伐を決行しようとします。
光秀は長宗我部氏との外交役から外され、丹羽長秀と織田信孝(信長三男)を大将とする長宗我部討伐軍が編成されます。
この討伐軍の四国への出発予定が6月3日でした。本能寺の変が起きたのが前日の6月2日です。
信長の四国政策をめぐる手のひら返しの政策が光秀を追い詰め、本能寺の変を引き起こしたのではないかと言われています。
長宗我部元親を助けようとしたとも、光秀自身のメンツが潰されたためとも言われています。
近年、最も有力視されている説だと思います。
羽柴秀吉との権力抗争に敗れる
信長と対立していた阿波の三好氏を従えさせたのは、秀吉でした。
秀吉は信長から中国方面の攻略を任されていました。陸路だけでなく、瀬戸内海方面からの攻略の必要性を感じ、阿波三好氏を味方に引き入れることにしました。
秀吉が、長宗我部と対立していた三好氏を味方に引き入れることで、光秀の追い落としまで考えていたかどうかはわかりません。
個人的には、秀吉自身も中国地方攻略で結果を出さなければならなかったので、必死だったのだろうなと思いました。
三好氏VS長宗我部氏の四国を巡る勢力争いの背景には、光秀VS秀吉という織田家のナンバー2の座を巡る権力争いがありました。
後の結果が示していますが、信長が選んだのは、「秀吉」でした。まさに、光秀と秀吉の織田家での地位が入れ替わった瞬間であったと思います。
四国説の背景には、ライバル秀吉の存在が大きく影響していたのではないかと思います。
まとめ
本能寺の変「四国説」。
光秀が信長と長宗我部氏との板挟みとなり、交渉の努力を水の泡にされ、ライバル秀吉との権力闘争に敗れるなど、様々な要因が絡んでいたと思います。
この時期の光秀は、同じく信長の家臣・稲葉一鉄ともトラブルを起こしていて、信長から叱責されたとも言われています。
光秀と信長の関係性は悪化していたと予想することができます。
光秀は、織田家家臣としての自分自身の今後や主君の信長についても見切りを付けてしまったのではないか、そんな気がしました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
明智光秀と稲葉一鉄の本能寺直前のトラブルについては、こちら↓↓
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