本能寺の変のきっかけ!?明智光秀と稲葉一鉄のトラブルとは?

歴史上の出来事
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日本史上最大のミステリーと言われる「本能寺の変」。

その理由として数多くの説があげられています。

 

明智光秀と稲葉一鉄のトラブルが、本能寺の変のきっかけとして言われることがあります。

このトラブルは、明智光秀の重臣・斎藤利三が発端で、やがて主君の織田信長をも巻き込むことになります。

 

これにより、光秀は窮地に追い込まれます。

 

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本能寺の変のきっかけ!?明智光秀と稲葉一鉄のトラブルとは?

明智光秀と稲葉一鉄と斎藤利三の関係性について

まずは、この3人の関係性からみてみたいと思います。

 

明智光秀の重臣として有名な斎藤利三ですが、明智光秀の前は、稲葉一鉄に仕えていました。

諸説ありますが、斎藤利三は稲葉一鉄の娘を妻に迎えています。自分の娘と結婚させるということから考えると、斎藤利三は稲葉一鉄に信頼されていたのではないでしょうか。

 

余談ですが、斎藤利三と稲葉一鉄の娘の間に生れた子どもが、後の「春日局」です。稲葉一鉄は、春日局の「おじいちゃん」にあたります。

 

美濃の斎藤龍興と織田信長が戦った「稲葉山城の戦い」の時に、美濃三人衆と言われた稲葉一鉄は、織田信長に寝返ります。

この時に、稲葉一鉄について斎藤利三も織田家に仕えます。

 

そして、あの明智光秀も織田家に仕えるようになります。

 

詳細な時期や理由はわかっていませんが、稲葉一鉄に仕えていた斎藤利三は、明智光秀に仕えるようになります。

 

1578年頃には光秀に仕えていたとされ、光秀の丹波平定後、光秀の元で黒井城を任されています。

 

斎藤利三が明智光秀に仕えるようになった理由として、光秀の引き抜きがあったとも、斎藤利三と稲葉一鉄がけんか別れしたとも諸説言われています。

 

この3人は、何らかのしこりが残っていたような関係性だったのかもしれません。

 

本能寺直前!明智光秀と稲葉一鉄の間に起きたトラブルとは?

斎藤利三が稲葉一鉄の重臣を引き抜きます。その重臣は光秀に仕え始めました。

 

これに稲葉一鉄は大激怒!一鉄は主君の織田信長に訴えます。

 

一鉄の訴えを聞き入れた信長は、明智光秀に対し、引き抜いた重臣を一鉄の元に戻すよう命じます。

そして、引き抜き工作を行った斎藤利三を切腹させるように命じたのでした。

 

しかし、光秀は利三切腹の命令に従わなかったため、信長に頭を数回殴られたと言われています。

 

このトラブルが起きたのが、1582年5月。

本能寺の変が起こったのが、1582年6月ですので、まさに本能寺の直前の出来事でした。

 

結果的には、周囲のとりなしもあり、利三への切腹命令は撤回されます。

 

信長が稲葉一鉄側の申し出を全面的に認めたことに対し、利三に対しては最も厳しい処分を下しています。

このことにより、利三と光秀が信長への不満を強め、本能寺の変へ繋がったのではないかという説があります。

 

まとめ

本能寺の変の引き金だったかもしれない、明智光秀と稲葉一鉄のトラブルについてでした。

 

一鉄にしてみれば、斎藤利三に続き2回も光秀に重臣を引き抜かれているので、頭にくるのも無理はないのかな、という気がしました。

 

それにしても利三への切腹という処分は厳しすぎるような気もしますが…。

 

この時期の信長と光秀の関係性が気になるところです。

 

利三に切腹命令が下ったのは、本能寺の変のわずか数日前とも言われています。

 

この一件は、明智光秀が本能寺の変を起こした主たる要因ではないように思います。しかし、タイミングからすると、「きっかけ」にはなったのかもしれないな、と思いました。

 

本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

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