「本能寺の変サミット2020」を見ての感想 真相は一体どの説?

歴史上の出来事
rkarkowski / Pixabay

 

あけまして、おめでとうございます!2020年もよろしくお願いいたします!

 

どうもみやです。本日もお越しくださり、ありがとうございます!

新年を迎え「いだてん」→ 「麒麟がくる」へと頭が切り替わったわたしです(笑)

 

お正月早々、NHKBSで「本能寺の変サミット2020」なる番組が放送していました。さすがNHKさん。こういう番組を待っていましたよ。

 

様々言われている本能寺の変の諸説の整理になりましたし、わたしが知らなかった話も出てきて、大変興味深く拝見いたしました。

 

番組で取り上げられた本能寺の変の諸説とその信憑性について、整理したいと思いました。

 

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「本能寺の変サミット2020」を見ての感想 諸説とその信憑性について

怨恨説

こちらは、以前から言われてきた「定説」ですよね。過去の大河ドラマは概ね、この説で描かれています。

 

研究者の皆様によると、「後世に脚色されて描かれた可能性が高い」とのことでした。

信憑性の高い、いわゆる一級資料では、信長は光秀を非常に信頼していたようです。

 

とういうことで、この説は信憑性は低いとのこと。

しかし、歴史学では、人の心まで入っていけないという話もあり、完全には否定できないし、立証も難しいそうです。

その通りですね。気持ちの部分は光秀に聞かないとわからないですから。

 

わたし個人は、織田家のナンバー2たる光秀が個人的な恨みだけでここまではしないと思ってます。

 

共謀説

朝廷共謀説

信長が京で行った「馬揃え」がいわゆる軍事パレードに相当し、朝廷に対する牽制になったとも言われているようです。また、信長が朝廷に対し、「太政大臣」「関白」「将軍」のどれかに任官するよう迫ったとも言われています。

信長の存在が朝廷の権威を脅かすようになり、そのため、光秀と朝廷が共謀したという説です。

 

足利将軍が京を追われた後、足利将軍家の代わりに信長が経済的援助をしていたようですし、馬揃えを京で開催したのも天皇の要望があったとか。任官の件についても、朝廷側から信長に打診したという解釈もできるそうです。

信長が好き勝手やっていたわけでなく、朝廷にそれなりの敬意をはらっていたようです。

ということでこの説も信憑性が低いようです。

 

イエズス会共謀説

イエズス会がキリスト教の保護と引き換えに、信長に経済的支援を行っていたが、次第に信長をコントロールしきれなくなり、ナンバー2の光秀に近づき、本能寺の変を起こしたという説です。

キリスト教を保護したイメージが強い信長ですが、そのことが記録されているのは、西洋の宣教師側の記録だけだそうです。日本側の記録にはないらしいんです。母国に布教活動を報告するにあたり、良いように記録を書いていた可能性が高いとか。

宣教師こそが、時の権力者のことを気にしなくて良いので、わりと真実に近いことを記録に残しているのかなと個人的には考えていました。

なので、意外でした。

信長は、南蛮との貿易が魅力的でキリスト教を積極的に保護しているものだと思っていました。その側面もなくはないようですが、当時は思っていたよりはキリスト教は広まっていなかったようです。

根拠となる資料が乏しいこと、本能寺の変の時に宣教師も逃げていることからこれも信憑性は低いようです。

 

鞆幕府推戴説(ともばくふすいたいせつ)

なんだこの難しい漢字は、というのが、第一印象(笑)

京を追われた15代将軍足利義昭は、今の広島の鞆の浦というところにいたようです。それで鞆幕府らしいです。

これもよく言われている義昭が光秀に近づき、本能寺の変を起こさせたという説ですね。

 

じつは、これは意見が割れまして。

謀反の正統性を確保するため、「室町幕府の再興」といのは大義としては非常に有効だそうです。確かにそうですね。

将軍を担いで京に入るというのは、この時代ではオーソドックスなやり方なんだそうです。

この時代の価値観で考えると説得力がありました。

 

足利義昭と明智光秀が接触を図ったのが、本能寺の変の前なのか後なのかで意見が割れていました。

本能寺の変の前から共謀していたのか、本能寺の変の後に光秀が自分の正統性を確保するために、義昭と接点を持つことになったのか…。

 

ということでこの説ははっきりせず。

個人的には、足利義昭との共謀はないのかなという感じです。室町幕府再興が目的だったら、足利義昭が京から追放された時点で、もっと何とかしていたんじゃないかなと思いました。

 

構造改革反発説

信長は各大名の領地に対し「預治思想」というものを取り入れたそうです。

領地は各大名のものではなく、あくまで天下人から預かって治めているという考え方です。この考え方により、領地をめぐる争いをやめさせようとしたんですね。

 

いわゆる国替えなどがこの考えにあたり、秀吉→家康と後の天下人たちに引き継がれていった考えです。そのほか、領地内の城の配置や、検地の実施なども含まれます。

 

当時としては、かなり革新的で、国替えをさせられる大名は大変だったようなんですね。確かに、普通に考えると大変そうですもんね。

 

実は次の国替え候補は光秀で、この構造改革に反発して、本能寺の変を起こしたのではないかという説です。

 

この「預地思想」について、実は検地についは光秀、秀吉、柴田勝家あたりが独自にやっていたのではないかという考えと、やはり信長の指示の元、行われていたのではないかと意見が分かれていました。

ということで、この説についての信憑性ははっきりせず。

 

暴走阻止説

当時の天下というのは、日本全国のことではなく、京都もしくはその周辺を指していたようなんです。信長は畿内を平定しますが、上杉氏や毛利氏との戦など、どんどん戦線を拡大し続けていました。

長引く戦と拡大し続ける戦線に家臣たちは疲弊していたようなんです。追い打ちをかけるように四国攻めの命を下した信長。泥沼の長期戦になることが目に見えていました。

そんな状況に終止符を打ちたいと本能寺の変を起こしたという説です。畿内を任されていて、なおかつナンバー2だった自分が止めるしかないと考えた可能性があるようです。

 

本能寺の変の前に関係の深い細川藤孝に対し、「あるべき状態に戻したい」「自分たちの息子の世代に権力を移行させたい」というような内容の書状を送っているそうです。光秀自身に野心はないようです。

こちらの説は可能性としては高いようですが、まだまだ検証が必要なようです。

 

これを聞いて、まさに大河ドラマで採用されそうな説だなと思いました。自分には野心はなく、戦ばかりの信長政権を終わらせたいということですからね。

麒麟がくるはこの説で来るのではないかなと思いました。

 

四国説

最近登場した説ですね。

四国の長宗我部氏に対し、信長は「領地は切り取り次第」と約束していたんですが、急に方向転換し、長宗我部氏のライバルの三好氏に接近しました。長宗我部氏対し、領地の一部を三好氏に渡せ、と言い始めます(汗)

 

信長と長宗我部氏の間に入って交渉していた光秀のメンツが丸つぶれなんですね。一生懸命に取り持った結果、本能寺の変の10日前、長宗我部氏から「今まで取り計らってくれたことは忘れない。信長の言う通りにするよ」という内容の書状が届きます。

にもかかわらず、信長は長宗我部氏を攻めるよう命令します(汗)

本能寺の変が起きたのは織田軍が四国に渡航する直だったそうです。

 

この四国説は長宗我部氏と三好氏の四国をめぐる抗争にとどまらず、光秀と秀吉の権力抗争という側面もあったんです。三好氏と信長を取り持ったのは秀吉だったんです。信長としては、毛利攻めの足がかりとして、瀬戸内海を抑えたかったようなんです。長宗我部氏でも三好氏でも実はどちらでも良かったそうです(汗)

信長は光秀より秀吉を選びました。織田家内での立場に多いに影響をあたえてくるこの一件。そういった部分でも、光秀のメンツが丸つぶれとなりました。

研究者の方によると、信長は家臣を競わせることをしていて、結局その影響が信長自身にふりかかってきた側面もあるようです。

四国をめぐる抗争と秀吉との権力抗争でもあるこの説がかなり有力とのことでした。

 

突発的犯行説

本能寺の変の時は、信長はすでに嫡男信忠に家督を譲っていました。そのため、光秀が謀反を成功させるには、2人同時に討たないと意味がなかったそうです

実は信忠が信長の近くに泊まることになったのは、急な予定変更だったそうです。本能寺の変の3日前です。そとのきの光秀は、中国攻めのため軍勢が揃っていました。

ありえない偶然が重なったんですね。この好機は逃せないと突発的に動いた可能性は高いようです。

これは、とても納得でした。

 

秀吉陰謀説

本能寺の変で一番得したのは誰かと考えると、やはり秀吉ですよね。そして、あのありえない早さと言われる中国大返し。疑われる要素が満載です。

研究者のみなさんも、今みたいにネットや電話もない時代になぜ信長の死をすぐ信じて、確信を持ってすぐ行動に移したのかは不思議なんだそうです。もし、信長が生きていたら、秀吉自身が大変なことになってしまいますからね。

結局のところ、黒幕ではないものの光秀に対し、「こいつ何かやらかすんじゃないか」という雰囲気を察知していて、想定の範囲内だったのではないかという結論にいたってました。

四国の一件で、秀吉自身、思い当たる節がありますしね。

 

従来のイメージを覆す信長像

実は今回の番組をみて、わたしの信長像がガラガラと崩れました(笑)

革新的な人物と言われていた信長ですが、実は中世的な保守的な人物であったそうです。

古い権力を否定したイメージが強いのですが、朝廷に対し、経済的援助を行い、朝廷に対し敬意を持っていたそうです。

天下布武を掲げ、天下統一を目指していたのも自分が天下を取るためでなく、朝廷を中心とした国作りのため、治安や政治を安定させたいという思いだったとか。

当時のマナーや習慣を守ることにも大事にしていたそうです。

イメージにないな~。習慣とかマナーとか根拠がなければ気にしなそうなイメージです(笑)

 

麒麟がくるでも革新的な「魔王」と言われていた信長の従来のイメージにない「保守的」かつ「中世的」な側面を描くらしいので、俄然楽しみになってきました。

 

この1年で信長のイメージが変わるかもしれません。

 

まとめ

ということで、新年早々良い番組を見させてもらいました。

わたし個人としては、この番組を見て

「暴走阻止説」+「四国説」かなあと思いました。

 

四国説は四国の勢力争いにとどまらず、秀吉とのナンバー2争いも絡んでいて、ありそうだなという感じです。この説だと、光秀が何かやらかしそうだと秀吉が警戒することができ、中国大返しについても説明がつくような気がしました。

大河ドラマファンとしては、戦続きの織田政権を終わらせたいという暴走阻止説であってほしいなという願望もあります。

 

長年多くの研究者たちが研究してきても、はっきりとした動機がわからない本能寺の変。本当に日本史最大のミステリーだなと思います。

 

本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございます!

 

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