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あなたは本圀寺の変(ほんこくじのへん)という歴史の出来事をご存じですか?
別名、六条合戦とも言われています。
ドラマなどでもあまり取り上げられることは少なく、そこまでメジャーな出来事ではないのかなという印象です。
あまりメジャーな出来事でないにも関わらず、歴史上の有名な人物たちが関わっていた出来事でした。
そしてこの時、岐阜にいた信長にも人ごとでは済まない事件だったのです。
明智光秀も活躍!足利義昭が狙われた本圀寺の変(六条合戦)とは?
簡単解説!本圀寺(ほんこくじ)の変とは?
織田信長の支援により、15代将軍に就任することができた足利義昭。
足利義昭が無事に将軍に就任すると、信長は本拠地の岐阜へ戻りました。
その時、足利義昭の元に残っていたのは、明智光秀をはじめ、わずかな国衆だけだったと言われています。
信長や足利義昭と対立していた三好三人衆は、信長との権力闘争に敗れ京を離れていました。
しかし、信長不在の上、足利義昭の警護が手薄になった隙を見逃すはずがありません。
個人的に、本能寺の変のこともあるので、信長って危機管理はあまり得意でなかったかもしれませんね。汗
話は逸れてしまいましたが、絶好の機会を見逃さない三好三人衆は、1万の兵を率いて足利義昭がいる本圀寺に攻め込んで来ました。
三好三人衆側には、斎藤道三の孫・斎藤龍興もいました。
本圀寺にいた足利義昭側の兵は2,000ほど。
絶体絶命の状況でした。
足利義昭側の奮戦により、三好三人衆の軍は、本圀寺の中に入ることができません。
諦めた三好三人衆軍は、翌朝、再度攻め直すことにしました。
しかし、翌日になると細川藤孝らが援軍を引き連れ、足利義昭を助けにきました。
勝ち目がないと思ったのか、三好三人衆軍は、逃げ出します。
追撃をする足利義昭軍。
桂川というところで抗戦しますが、足利義昭側の優勢で戦いは終結となりました。
この一件により、信長は、本圀寺では、警護の不安があるため、二条城(現在ある二条城とは別です)を作ったと言われています。
明智光秀個人の働きは詳しくわかりませんが、足利義昭軍に少数残った武将の1人として明智光秀の名前が「信長公記」に登場します。
光秀は鉄砲の名手とも言われていたので、三好三人衆の軍が本圀寺に侵入しないよう奮闘したことが予想されます。
信長もピンチ!?
この事件が起きたとき、織田信長は岐阜にいました。
信長の元にも早馬で事件が知らされます。
事件を知った信長は、大急ぎで京へ向かいます。
この時、1月でした。岐阜には雪が積もっていました。
そんな気候の中、通常は3日かかる道のりを信長は、2日で駆け抜けたと言われています。
信長に付いていくことができたのは、十騎もいませんでした。
凍死者を出すなど、かなり過酷な行軍でした。
信長の必死な思いが伝わってきますね。
自身が将軍に据えた足利義昭がみすみす暗殺されるようなことがあれば、信長の面目にもかかわります。
また、足利義昭の暗殺が実行されてしまえば、畿内での覇権を再び三好三人衆に奪われることになり、信長の政治生命に大きな影響を及ぼすことが予想されます。
信長の必死の行軍には、信長のこういった想いがあったのかなと思われます。
離れた岐阜にいた信長自身に命の危険はありませんでしたが、ある意味信長もピンチでした。
信長が到着した時には、すでに足利義昭側の優勢で事態は収束していました。
信長も一安心だったと思います。
まとめ
数的には圧倒的に不利にも関わらず、優位に戦いを終えた足利義昭軍。
三好三人衆から襲撃されたとき、足利義昭やその家臣たちの脳裏に浮かんだのはあの事件だったと思います。
足利義昭の兄で第13代将軍だった足利義輝も三好三人衆に襲撃され、奮闘の末、命を落としています。
そのことにより、足利義昭の身も危うくなり、越前の朝倉家で保護してもらうという不遇の時代を過ごすことになりました。
「このまま負けるわけにはいかない」という強い想いが足利義昭陣営にはあったのではないでしょうか。
その想いが圧倒的に不利な状況を跳ね返す力になったように思いました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
足利義昭の兄・足利義輝の襲撃事件についてはこちら↓↓
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