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戦国武将・朝倉義景。
織田信長が登場する大河ドラマなどには、浅井長政と一緒に登場することが多いです。
浅井長政の最期は、信長の妹・お市の方と3人の娘たちを逃がした後、自害して果てるというかたちで、大きく描かれることが多いです。
しかし、朝倉義景はというと、具体的にどのような最期だったのかは、あまり詳しく描かれないことが多いと思います。
ということで、今回は朝倉義景はどのような最期だったのかについて、迫ってみたいと思います。
そして、大河ドラマなのでは、信長の残虐性を示すエピソードとして、浅井長政がドクロの盃にされるシーンもよく登場します。
しかし、ドクロにされたのは浅井長政だけでなく、朝倉義景も一緒にドクロにされていました。
朝倉義景の最期は家臣に裏切られ、織田信長にどくろの盃にされた!?
朝倉義景の最期
足利義昭を将軍に就けた織田信長は、朝倉義景に京に上洛するようにもとめますが、義景は拒否を続けます。
このため、信長は越前攻めに踏み切ります。
金ケ崎の戦いでは、浅井長政の寝返りにより、織田信長を退けることに成功します。
しかし、続いての姉川の戦いでは、朝倉・浅井軍は信長に惨敗。
そしえ、信長は浅井長政の居城に攻めかかります。朝倉義景は浅井長政を助けるため、援軍に向かいますが、結局大敗してしまいます。
朝倉義景は命からがら、居館のある一乗谷に戻りますが、この時、味方の兵は10人ほどしかいなかったと言われます。
信長が一乗谷にも攻め込んできたため、義景は各地を逃走します。
朝倉義景は、家臣でいとこでもある朝倉景鏡(あさくらかげあきら)の勧めで、賢松寺というところに避難します。
しかし、朝倉景鏡は、信長方に寝返り、朝倉義景を襲撃します。
家臣にも裏切られ、逃げ場を失った朝倉義景はここで、自害して果てました。
どくろにされた朝倉義景
朝倉義景の首は織田信長によりどくろにされ、浅井久政・長政父子とともに、箔農(はくだみ)を施され、信長の家臣たちに披露されたと言われています。
箔農(はくだみ)とは、漆塗りをして金粉をかけたものです。
さらに、お酒を飲む盃にされたという説があります。
しかし最近は、どくろに箔農の施しはしたけど、盃にはされていないのではないかという説が濃厚のようです。
「信長公記」には、どくろに箔農を施し、身近な家臣たちに披露したと書かれているようです。
盃にしたという記述は出てこないようです。
「浅井三代記」という資料に盃の話が出てくるようですが、この当時から100年後くらいに書かれたものらしく、信憑性は薄いようです。
朝倉義景のどくろを見て明智光秀は何を思ったのか
敵将のどくろを金ぴかにして、盃にして酒を飲むという逸話は、現代人の感覚からするとちょっと、考えられないですよね。
信長の残虐性を示すエピソードとして、信長の出てくる大河ドラマなのでは、必ずと言って良いほど描かれます。
「夫・浅井長政のどくろを目の当たりにするお市の方」の描写が多いかなと思います。
朝倉義景のどくろという観点からみると、複雑な思いを抱く人は、明智光秀かなと思います。
明智光秀は、信長に仕える前に朝倉義景に仕えていました。
そのため、朝倉義景のどくろを目の当たりにした光秀は、他の家臣たちとは違った複雑な想いを抱いたと思います。
ドラマによっては、信長が光秀に無理矢理、朝倉義景のどくろの盃で酒を飲ませるという描写もあるようです。
まとめ
朝倉義景の最期と金色のどくろにされた話についてでした。
朝倉義景の最期は、身内でもある家臣に裏切られてしまうというものでした。
味方の将兵たちがどんどん逃亡し、10人ほどしか残っていなかったと言われているので、もう再起は難しく、身内からも見切りを付けられてしまったのかもしれません。
そして、浅井父子とともに金色のどくろにされますが、盃にされたというは信憑性が薄いようです。
京以上に栄えたと言われる越前を治めていた朝倉義景。
しかし、その最期は、悲しい末路となってしまいました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
時代が違えば朝倉義景は名君扱いされたかもしれません↓↓
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