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第13代将軍・足利義昭の暗殺(永禄の変)。将軍の暗殺を行った1人が、松永久秀と言われています。
松永久秀はこの事件の他にも、「主家の三好家を乗っ取る」「東大寺大仏殿を焼く」といった三大悪事を行った人物と言われています。
戦国時代のヒールというか豪傑なイメージがありますね。
しかし、彼の本当の人物像は少し違うようなのです…。
実は足利義輝を襲撃していない!?戦国のヒール松永久秀の真の姿とは?
松永久秀は頭脳派だった!?
秘書だった!?
松永久秀は三好長慶の右筆(書記)として仕えていました。
現代でいう会議の時の議事録を書いたり、文書の代筆などをしたりするのが右筆の仕事です。
松永久秀は物事を正確に伝えることが非常に上手く、これにより主君に認められ、側近に抜擢されました。
当時は映像で撮影したり、音声録音もないわけなので、文章での記録が全てです。
そうなると、いかに正確にわかりやすく伝えられるかということは、非常に重要だったのではないでしょうか。
秘書だったというのは意外な感じがしますね。
裁判で将軍足利義輝の力を弱めていった!?
当時、将軍家が下した判決に不満を持つ人たちが多くいました。
そこで、京の実力者であった三好家に裁判のやり直しを求める声が多く寄せられました。
そこで、松永久秀は、誰もが納得できる裁きを行い、将軍が下した判決を覆してしまいました。
こうしたやり方で、将軍家の影響力を弱めていったようです。
文章能力に優れていたり、誰もが納得できる裁きを行えるあたり、意外と頭脳派なのかもしれないですね。
将軍・足利義輝暗殺には関わっていない!?
松永久秀が行ったとされる三大悪事の1つに、将軍・足利義輝暗殺(永禄の変)があります。
久秀がこの事件の首謀者と言われることもありますが、久秀はこの時大和の国にいて、襲撃には参加していません。
変の後、松永久秀は足利義輝の弟・足利義昭を幽閉する役割を担いますが、命は取らないと約束しています。
幽閉生活も外出を禁じた程度で、比較的緩いものだったようで、そのおかげで義昭は脱出できたのかもしれませんね。
一方、実行犯の三好三人衆は、足利義輝の子を妊娠していた侍女までも殺害しており、容赦はしなかったようです。
松永久秀と比べると対応に大きな差があるのがわかります。
松永久秀が足利義輝襲撃の実行犯でないのは間違いないようです。
事件に全く関わっていないとは言い切れないと思いますが、主犯ではなかったように思います。場合によっては、あまり積極的でなかった可能性もあるように思いました。
その他の三大悪事も松永久秀は行っていない!?
将軍暗殺以外の三大悪事としては、「主家乗っ取り」と「東大寺大仏殿焼き討ち」があります。
久秀の主君・三好長慶の1人息子・義興が急死しますが、久秀が毒殺したと噂が流れました。
三好長慶の弟・安宅冬康が長慶に斬り殺される事件が起こります。
これも、久秀が長慶に「冬康は謀反を企んでいる」と告げ口をしたから、と言われています。
これらはあくまでも噂レベルに過ぎずないようです。
東大寺大仏殿の焼き討ちについても諸説あり、そもそも放火ではなく、松永軍の失火だったという説もあります。
また、宣教師ルイス・フロイスは、三好三人衆側のキリシタンが放火したと記録しています。
このように諸説あるため、松永久秀が放火したと断定はできないようです。
まとめ
松永久秀は世間で抱かれているイメージよりは、頭脳派で穏健派な人物だったのではないかと思いました。
にも関わらず、豪傑なヒールのイメージがあるのは、
・織田信長に2回謀反を起こしたこと。
・爆死という壮絶な最期を遂げたこと。
この2つのインパクトが強いため、そういったイメージを持たれるようになったのではないかと思います。
織田信長は松永久秀の三悪事について、苦々しげに語っていたと言われています。
信長は謀反を起こされた張本人なので、かなり個人的な感情が絡んでいる可能性が高いです。
信長自身がこのように語ったとすると、周囲への影響力は大きいと思われます。
斎藤道三とともに、戦国の三大梟雄(きょうゆう)とも呼ばれる松永久秀。
インパクトの強いエピソードが先行していて、その実像はベールに包まれていることが多いのかもしれません。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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