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織田信長が行った比叡山焼き討ち。
女、子どもまでも皆殺しにしたと言われ、織田信長の残虐性を表す出来事の1つと言われています。
これまでは、明智光秀はこの比叡山に焼き討ちに反対の立場とされていました。信長を何とか止めようと、信長に進言したことで信長の怒りを買ったとされています。
結局は主君である信長に逆らえず、自分の気持ちを押し殺し、比叡山を焼き討ちを行ったとされていました。
しかし、明智光秀のイメージに反し、比叡山焼き討ちに対し積極的だったようなのです…。
比叡山焼き討ちの真実!明智光秀は誰よりも積極的だった!?
比叡山焼き討ちとは?簡単解説!
朝倉氏と浅井氏と対立していた信長。
比叡山は両氏に味方していました。
そこで信長は比叡山に対し、織田方に味方するか、中立の立場を取るかのどちらかを選択するように交渉しました。
しかし、比叡山側は信長の提示案を2つとも拒否。
そのため、信長は比叡山を攻撃しました。
明智光秀は比叡山焼き討ちに積極的だった!?
比叡山焼き討ちには、反対の立場だったとされる光秀ですが、比叡山焼き討ち数日前に味方に送った手紙では、
「敵方の村をなで切り(皆殺し)にしてやろう」
と書いているそうです。
信長の意向をくみ取り、積極的に焼き討ちを実行しようとしていたのではないか、と言われています。
比叡山焼き討ち後、信長は光秀の働きを高く評価し、近江志賀群と比叡山領の管理を光秀に任せることになりました。
光秀が仕方なく焼き討ちに参加していたら、あえて「なで切りにしよう」という手紙は書かないと思われます。
また、嫌々であれば、信長が高く評価するほどの働きぶりにもならないかと思われます。
これまでのイメージとは違った、明智光秀の姿があったのかもしれませんね。
将軍・足利義昭に注意されるくらい積極的!?
光秀が信長から任された比叡山領は、信長に対立したため没収されたエリアでした。
しかし、光秀は信長に中立の立場を取っていたエリアの領地まで没収していったと言われています、
地元の領主たちとトラブルに発展しています。
この状況に対し、時の将軍・足利義昭は「やりすぎじゃないか」と光秀を厳しく注意したと言われています。
しかし、これに対し光秀は反省するどころか足利義昭の側近に、
「お暇をいただき、出家する許可をもらえるよう、義昭様にお取りはからいください」
と手紙を送ったと言われています。
従来のイメージからすると、かなり意外な一面だなと思いました。
頑固な人なのかもしれませんね。
光秀が没収した領地の中には、細川藤孝のいとこにあたる佐竹宗実という人の領地もありました。
そこの領地支配をめぐって光秀と宗実は揉め、信長の重臣を巻き込むトラブルに発展します。
最終的には細川藤孝のとりなしで、和解し、宗実は光秀の配下として活躍したそうです。
いろいろやり過ぎた部分は、あったようですが結果オーライだったようです。
当時の寺社
現代の感覚で言うと、お坊さんは、武器を持たないで無抵抗のイメージがあります。
しかし、当時の寺社は現代人が抱くイメージとは、違ったものであったようです。
当時は、お坊さんたちは武器を持ち、自分たちの領地を守っていました。また、近隣住民を保護する役割を担っていたそうです。
単なるお寺というよりは、1つの国のようなものだったそうです。
また、お坊さんのイメージとして、煩悩を捨て、ひたすら修行に励むというイメージがあります。
比叡山は古くから権威のある寺社でありましたが、信長の頃の僧侶たちは堕落していたと言われています。
禁止されている肉食をしたり、女性を連れ込んだりしていたようです。
まとめ
比叡山焼き討ち。
ここまでわかっている光秀の姿、当時の寺社の様子から、光秀は嫌々ではなかったと思います。むしろ、積極的だった可能性が高いように思いました。
そして、足利義昭に注意されても自らの行動を変えない、という頑固な一面も伺えました。
そんな頑固な人だからこそ、堕落していた比叡山の姿が許せなかったのかもしれないな、と感じました。
光秀のなりの正義感で、比叡山焼き討ちやその後の領地管理を行っていたのではないかと思いました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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