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戦国の奇跡とも言われている「中国大返し」。
羽柴秀吉、後の天下人の豊臣秀吉の軍勢は、備中高松城から姫路城までのおよそ100キロを2日間で駆け抜けたと言われています。
当時の移動手段と言えば、「走る」か「馬」しかない上、甲冑を着ている状態で100キロを2日で移動するのはなかなか、すごいことだなあと思います。
先日視聴した「英雄たちの選択」では、中国大返しが特集されていて、「中国大返しは奇跡ではなく、高速で移動できるシステムができていた」ということが説明されていました。
なるほど~、と思う内容でしたし、これで秀吉黒幕説も囁かれる秀吉の疑いも晴れそうだなと思ったので、感想を交えお伝えしたいなと思います。
中国大返しの謎解明!?羽柴秀吉はなぜ高速移動を実現できたのか?
行軍のときは甲冑を着ていなかった!?
行軍の時って、甲冑を着て移動するイメージですが、実際は兵の消耗を避けるため、戦場近くになったら着用していたようです。
フル装備では移動していなかったようです。
兵糧も各城に分配して置いたりしていたので、大量の兵糧を運んで移動もしていなかったみたいですね。
当時の人はわりと命知らずな人もいて、平装に近い格好で戦に出る人もいたらしいです(汗)
戦乱の時代に生れた人たちと現代の我々との感覚は全然違うんだろうなと思いました。
整備された道を駆け抜けた!?
信長は道路整備に力を入れていたようです。
道幅を6~8メートルくらいにし、道を平坦にし、岩などを取り除き行軍しやすいにように整備していたようです。
道の整備により、迅速な行軍や補給路の確保も可能になります。こういった道路整備を行いながら、全国に戦線を広げていったようです。
毛利攻めの時、秀吉は信長自らの出陣を依頼しています。
信長が行軍してくるため、道は綺麗に整備されていた可能性が非常に高いようです。
中国大返しの時は、整備された平坦な道を駆け抜けたと考えられ、スムーズな移動が可能だったようです。
個人的には、平坦にならされた自然の道ならば、現代のアスファルトの道路よりも足腰に負担がかからなそうだなと思いました(笑)
休憩と食事には困らなかった!?
信長の西国攻略のため、移動のルート上の城の改修工事が行われていたようです。
信長の宿泊所にするため、城を改修して食料なども備蓄していたと考えられるようです。
武田攻めの時には、徳川家康が信長のために宿泊に使う城を改修したり、道路を整備したりしたようです。
城の作りはかなり豪華だったようで、家康の心遣いに信長は感動したようです。
信長が行軍してくるとなると道路の整備や宿泊所の準備などかなり気を遣う必要があるようです。
毛利攻めで信長に援軍を依頼した秀吉も、同じように移動のルート上にある城の準備は万端にしていたと考えられますね。
もちろん、食料の準備も万端だったのではないでしょうか。
食料の備えもある宿泊所がルート上にあったということも、スムーズに移動できた要因ではないかなと思いました。
誰よりも早く本能寺の変を知った!?
本能寺の変が起きたのが6月2日。
秀吉は翌日の6月3日には情報を得ていたようです。
ちなみに、北陸方面軍の柴田勝家は6月6日、関東方面軍の滝川一益は6月9日に本能寺の変を知ったと言われています。
秀吉が相当早く情報を得ていたことがわかります。これが、秀吉が疑われる原因の1つでもあるのですが(汗)
やはり、ここでのポイントも「秀吉は信長に出陣を依頼していた」ということのようです。
信長をしっかりお迎えするため、秀吉は信長の動向にはかなり気を配っていたそうなのです。
信長がどこまでやって来ているのか知るために、要所要所に連絡員を置いていたと考えられるそうです。
そのしっかり準備した情報伝達網のおかげで、イチ早く本能寺の変を知ることにつながったようなのです。
まとめ
秀吉は、信長をしっかり迎えるために行っていた情報収集のおかげで本能寺の変をいち早く知ることができたようです。
そして、信長を迎えるために道路を整備し、宿泊所の準備も整えていました。
そのおかげで、秀吉勢はスムーズに撤退することが可能だったのです。
信長を迎えるために行っていた準備が、逆に信長の敵討ちに戻る時に全て役立ったということになるかと思います。
不思議というか、秀吉自身も信長のために用意したものを自分たちが活用することになるとは思っていなかったんではないでしょうか。
信長が討たれたことにより、信長のために用意したものは一見すると無駄になりそうですが、結果的に秀吉自身を助けることになりました。
やっておいて無駄になることって、案外少ないのかもなと思いました。
本日はここまで。最期までお読みいただき、ありがとうございました!
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