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織田信長が「東海道一の弓取り(東海地方で1番の戦国武将)」と言われた今川義元に劇的な勝利を収めた「桶狭間の戦い」。
わずかな軍勢で今川軍の大軍に戦いを挑み、圧倒的な数的不利の中、大将・義元の首を討ち取ることに成功します。
これにより、今川家は衰退。信長にとっては勢力拡大のきっかけとなった戦いです。
大きなターニングポイントの1つだと思います。
場合によっては、織田家が滅ぼされた可能性もありますからね。
なぜ、不利な状況にも関わらず、劇的な勝利を収めることができたのか?
信長の○○な性格が勝因だったのではと考察します。
桶狭間の戦い 織田信長が今川義元に勝利できたのは信長の性格のおかげ?
簡単解説!桶狭間の戦いとは?
時は1560年。信長27歳の時のことです。
桶狭間は現在の愛知県豊明市~名古屋市緑区のあたりにあったと言われています。
今川義元は2万5千の大軍を率いて尾張に攻め込んできました。
信長の元には織田方の砦が次々と落とされたという報告が入ってきます。
それを聞いた信長は「人間50年、下天うちを比ぶれば…」という『敦盛』舞い、湯漬けをかきこみ、わずか6騎ほどで飛び出して行ったと言われています。
その後追いついた兵2千を連れ、今川軍へ向け進軍を続けます。
この時、今川義元は桶狭間に陣を敷き、休息していたところでした。
この時に大雨が降ったおかげで、織田軍は敵に気づかれず近づくことができたと言われています。
今川軍に攻め込む織田軍。
今川軍は大混乱となり、多くの兵が逃げ出します。
そして、義元は織田軍の兵に討ち取られたのでした。
桶狭間の戦いの勝因は信長の性格にあった!?
桶狭間の戦いで言われているエピソードから次の2つに注目してみました。
・信長は今川軍に砦を落とされたことを聞くと、わずか6騎ほどで飛び出して行った。
・進軍の際に一騎ずつしか進めない道があり、そのまま進むと織田勢が少数であることを今川方に知られるため進軍をしないよう家臣たちは進言。しかし信長はこれを振り切って進軍を続けた。
このエピソードはまさに信長の性格を表しているなと感じました。
ブレーンを持たず家臣には相談をせず、1人で方針を決めていたと言われている信長。
人の意見に左右されることなく、自分の理想に向かい突き進んでいく印象が強いです。
ついてこれる奴だけ、ついてこい!という感じでしょうか(笑)
もし、信長が家臣の意見を素直に聞く人物であれば、勝敗の結果は違っていたかもしれません。
桶狭間の戦いは信長のこういった性格がまさに「吉」と出たのではないでしょうか。
さいごに
現代ではこのような生死を分けるような戦いはありません。
しかし、現代に置き換えてみると
何か挑戦したいことがあったとしても、データや周りの人の意見に左右されて諦めてしまうことも多くあると思います。
人は変化とリスクを恐れるのが通常だと思います。そのため、極力変化の少ない方の道を選ぶことが多いのではないでしょうか?
人の意見を聞くことはとても大事なことです。
しかし、時には信長のように突き進むことが必要な場面もあるかもしれないな、と考えさせられました。
本日はここまで。最後までお読みいただきありがとうございます!
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