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二条晴良(にじょうはれよし)という人物をご存じですか?
2020年大河ドラマ麒麟がくるでは、小薮千豊(こやぶかずとよ)さんが演じられます。
二条晴良は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿です。
二条家14代目の当主で、関白にもなっています。
同時期に関白の近衛前久(このえさきひさ)とは、対立関係にあり、後に織田信長からも疎まれることになる人物です。
二条晴良について、近衛前久、織田信長との関わりを中心に簡単に解説したいと思います!
二条晴良 簡単解説!近衛前久、織田信長と対立した足利義昭派の関白
足利義昭の元服式に参加
足利義昭が越前の朝倉家に身を寄せていた時、義昭の元服式が執り行われます。
この時京から招かれたのが、当時、前関白であった二条晴良でした。
もともと、足利家は血縁関係もあった近衛家との関わりがありました。
しかし、永禄の変で第13代将軍・足利義輝の暗殺により、関係性が変わります。
変の首謀者でもあった三好三人衆と近衛前久が接近します。近衛前久は次の将軍に三好三人衆が推す足利義栄を推すことになります。
このことで、三好三人衆と足利義栄は、近衛家の支援にまわったと思われ、二条家は足利義昭派へまわったと言われています。
近衛前久を追放する
織田信長の支援もあり、足利義昭は京へ上洛を果たし、第15代将軍になることができました。
この時関白だった近衛前久に対し、二条晴良はある疑いを持っていました。
それは、前述のように、永禄の変後、近衛前久は変の首謀者の三好三人衆と接近し、共に足利義栄を推しています。
この行動により、晴良は足利義輝の暗殺に近衛前久も関与しているにではないかと疑いを持ちます。
そして、吟味の結果、二条晴良は足利義昭とともに、近衛前久を追放します。
追放後は、近衛前久の関白職は解任され、二条晴良が関白の座に就いています。
その後、近衛前久は三好三人衆らとともに、反信長勢力にまわります。
近衛前久は、信長への敵意があったわけでなく、二条晴良と足利義昭の排除のため、結果的に反信長になったようです。
こうして、二条晴良と近衛前久は対立していくことになります。
織田信長の窮地を救う
志賀の陣で、織田信長は比叡山延暦寺に立て籠もった浅井・朝倉連合軍を包囲するも、各地で反信長勢力が反乱を起こし、信長は追い詰められることに…。
どうにもならなくなった信長は、足利義昭に和睦の調停を依頼します。
調停を依頼された義昭は、二条晴良に調停の実務を任せています。
窮地に陥っていた信長も、二条晴良のおかげでもあり、無事に本拠地に戻ることができたようです。
足利義昭の追放により…
織田信長と足利義昭の対立が深まり、足利義昭は京から追放されることになります。
これにより、二条晴良も信長から疎まれるようになったと言われています。
足利義昭追放後、信長は二条晴良のライバルとも言える近衛前久が京へ戻ることを許しています。
長信長と近衛前久は、この後、公私にわたり親交を深めることになります。
プライベートでは一緒に鷹狩りに行っていました。
公の場面では、近衛前久は信長の要請で和議を行ったり、信長の甲州征伐に同行しています。
信長の近衛前久とのこういった関係性から、信長と二条晴良の関係性というのは、次第に悪くなっていたのではないかと予想されます。
この後、二条晴良は1578年に関白を辞任し、その翌年、54歳の生涯を閉じます。
さいごに
二条晴良についてでした。
当初は、
二条晴良
足利義昭 VS 近衛前久
織田信長
という関係性が、
後に、
二条晴良 近衛前久
足利義昭 VS 織田信長
という関係性に変わっていったように思います。
近衛前久とは終始対立関係、信長とも関係性が悪化したことにより、晩年の朝廷運営は気苦労も多かったのかもしれないなと思いました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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