どうもみやです。本日もお越しくださり、ありがとうございます!
先日、実家に帰ったときに、再建された高田城三十櫓を見てきました。以前に1度行ったきり、今回は2回目でした。
高田城の初代城主は、徳川家康の六男・松平忠輝。
家康の実子でありながら、後に改易・配流となる数奇な運命を辿ることになります。
久しぶり現地で三十櫓を見て、松平忠輝が最も輝いていた時は、高田城の城主として高田の地で過ごしていた期間だったように思いました。
「鬼っ子」と呼ばれ、家康に疎まれ続け、改易・配流の憂き目に遭い、300年も赦免されなかった松平忠輝の生涯をみていきたいと思いました。
300年間許されなかった松平忠輝!家康に疎まれたその生涯とは?
母は絶世の美女
松平忠輝の生母は茶阿局と言われた徳川家康の側室。
元は、遠江国の鋳物屋の後妻でした。美しい茶阿局を自分のものにしようとした地元の代官は、夫を殺してしまいます。
その代官を訴えようと、茶阿局はたまたま鷹狩りに来ていた徳川家康の前に出て、直訴します。
家康も美しい茶阿局を一目で気に入り、半ば拉致に近いような形で浜松城に連れ帰ったとか…。
これらのエピソードを聞いていると、松平忠輝の母は、絶世の美女だったようです。
生れたときから家康に疎まれ…
生れたばかりの忠輝を見た家康の反応は、
「面妖怪奇(醜い)」と言ったと言われ、たいして喜ぶこともなく、家臣に預けて養育させています。
忠輝が7歳になるまで、1度も面会しませんでした…。
忠輝と同じような扱いを受けていたのが、家康の次男・結城秀康です。
結城秀康にも3歳になるまで会わなかったと言われています。
秀康は徳川秀忠の兄であるにも関わらず、徳川家を継ぐことはできませんでした。
忠輝、秀康に共通していたのが、母親の身分が低かったということです。
また、当時不吉とされていた双子で生れてきたとも言われています。
7歳まで会わなかったとは何だか、かわいそうな気がします…。
本当は文武両道の教養人
松平忠輝というと「鬼っ子」や「粗暴」「乱暴者の暴君」だったと言われています。そのために、家康に疎まれたとも…。
しかし、実際は文武に優れた教養人で、非常に有能な人だったようです。
奥山休賀斎という人物に武術を学び、徳川家の兵法指南役柳生一族を蹴散らすほど強かったとも言われています。
茶の湯や和歌・俳句、謡曲・鼓・笛、猿楽など文化面でも一流であったと言われます。
当時、鎖国に傾きつつあった幕府において、忠輝は宣教師たちとも交流し、西洋医術や外国語も学んでいました。
西洋の良い部分を取り入れようとしていたようです。
よく町へ出向き、庶民とも気さくに交流し、藩民からは慕われていたと言われています。
粗暴の暴君というのは、どうやら作られた人物像なのかもしれません。
歴史は、時に勝者の都合の良いように書き換えられます。
後に改易された忠輝が、文武両道に優れた有能な人物ではあっては、徳川幕府からしたら都合が悪いですからね。
松平忠輝はなぜ改易・配流に!?
忠輝が処罰されることになった理由として以下のことがあげられています。
・大坂夏の陣への参陣が遅れた。
・進軍中に追い越していった秀忠直属の旗本を「無礼討ち」にしたが、そのことを報告、釈明しなかった。
・大坂夏の陣の先勝報告の参内に病気を理由に参内しなかったが、実際は川遊びをしていた。
ということが言われています。
大坂の陣の後、忠輝は家康に勘当を言い渡され、病床の家康を見舞うことも頑なに許されず、死に目にあうことも許されませんでした。
そして、家康の死後、「大御所の遺言」として、秀忠により、改易されます。信濃の諏訪地方に配流されます。忠輝、まだ25歳の若さでした。
家康の想い~野風の笛~
病床の家康は、忠輝の面会を決して許しませんでした。
しかし、そんな家康から、生母・茶阿局を通じて忠輝に「生き形見」が届けられます。
織田信長から豊臣秀吉に、さらに徳川家康へと伝わっていった、まさに「天下人の象徴」とされた名笛・野風が忠輝のもとに届けられます。
決して忠輝と会おうとしなかった家康が、この天下の笛を忠輝に渡した…。
なんとなく、家康の想いというのがわかるような気がします。
家康は、忠輝のことを認めていたと思います。
西の前田、東の上杉の抑え、佐渡金山を有した主要の土地越後を任せたあたりからも…。
しかし、徳川家や幕府の安泰のために、非情に徹しざるを得なかったと思いました。
松平忠輝の改易・配流の真の理由とは?
先述したように、忠輝処分の理由は、大坂の陣への遅参や粗暴で日頃の行いが悪かったからとも言われています。
しかし、松平忠輝の生涯を調べてみて、有能だったからこそ、その存在が危険視されたのではないかと感じました。
野心家であった舅・伊達政宗との関わりもあります。
妻・五郎八姫がキリシタンであったこともあり、キリシタンへの理解もありました。そして、西洋文明にも精通しており、西洋の良い部分を国作りに取り入れようとしていたと言われています。
しかし、これはキリシタンへ厳しい禁令を敷き、鎖国へ向かっていた当時の幕府とは逆行する考え方でした。
有能でありながら、幕府とは違う考え方を持ち、伊達政宗や外国人たちとも交流のあった忠輝は、秀忠や幕府にとっては脅威だったのではないでしょうか。
秀忠が家康から将軍職を引き継いだ当時は、まだ世情は不安定でした。
家康が亡くなれば、再び天下の情勢はどうなるかわからない状態だったと思います。
つい最近まで同列だった徳川家に心中することに嫌悪を持つ大名、家康や秀忠により改易に追い込まれた大名とその家臣たち、西洋文明に触発され、社会への変革に関心を持ち始めるキリシタン大名たちなど。
その他、厳しい禁令により、不満を募らせていた全国のキリシタンたち。
家康・秀忠体制に不満を持つ人たちが、血筋、人物、その人脈も申し分ない松平忠輝を担ぎ上げ、将軍にしようとしても不思議はないように思います。
本人にその気があったのかはわかりませんが、忠輝の有能さ、彼の思想を考えたときに、将軍・秀忠にとっては、危険な弟だったのかもしれません。
配流後の松平忠輝~300年赦されず~
松平忠輝は、信濃の諏訪地方へ配流されます。
そのこで、文化芸能に触れ、地元民たちとも触れあいながら、穏やかに生活していたそうです。
将軍・家光の時代を迎え、徳川幕府の基盤が盤石になってくるにつれ、監視の目も緩くなり、厳しい配流生活ではなかったようです。
ただ、その生涯の中で1度も赦されることなく92年の長寿をまっとうします。皮肉なことに、徳川一族の中では、1番の長寿だったようです。
将軍はすでに、5代綱吉の時代になっていました。
そんな松平忠輝が赦されたのは、死後300年ほどたった昭和61年。
配流地だった諏訪の貞松院の住職が忠輝300年忌を迎えるにあたり、徳川宗家の当主に忠輝赦免の話し合いを持ちかけます。
こうして、忠輝は死後300年の後、ようやく徳川宗家から赦免されることになったのでした。
まとめ
「鬼っ子」と家康に嫌われ、素行も悪いため、改易に追い込まれたといわれる松平忠輝。
しかし、その人物像は、文武両道、西洋文明にも関心を持つという広い視野を持ち、高田や配流先でも地元民に慕われていた、そんな人であったようです。
そんな有能な人物だったからこそ、まだ政権が不安定だった秀忠政権からは敵視され、家康も徳川家及び幕府の安泰のために、非情に徹しなければならなかったように思います。
これは個人的な推測でしかないですが、忠輝本人が知らないところで、忠輝をトップとする「徳川幕府転覆計画」が進んでいた可能性もあるのかな、と思いました。
「松平忠輝待望論」を潰す必要があったのかもしれません。
これまで特に関心を持っていなかった松平忠輝でしたが、地元ということで調べてみるといろいろな発見がありました。
高田三十櫓から、300年程前の松平忠輝公の数奇な人生に思いを巡らせると、とても感慨深いものがありました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
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