今井宗久を簡単解説!織田信長、明智光秀との関係性とは?

歴史上の人物
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どうもみやです。本日もお越しくださり、ありがとうございます!

 

あなたは、今井宗久(いまいそうきゅう)という人物をご存じですか?

 

戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人てあり、堺の豪商です。

 

あの千利休(せんのりきゅう)や津田宗及(つだそうきゅう)と共に「茶湯の天下三宗匠」と言われています。

また、当時、軍需用品として需要があった鹿革の商いにより、富を得ます。

 

今井宗久は、武士階級の出身ではありますが、武将ではありませんでした。

茶の湯と経済力を背景に、時の権力者である織田信長と深い関わりを持つことになります。

 

そして、信長の部下である明智光秀とも関わりがあったようです。

 

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今井宗久~簡単解説! 織田信長、明智光秀との関係性とは?

織田信長に重用される

織田信長が矢銭を要求した際、今井宗久はすぐにこれに応じたと言われています。

 

そして、信長と直接対面したときは、名物茶器を信長に献上したと言われています。

 

この行動により、急速に信長の信頼を得ることになります。

 

信長と対面の翌年、信長は堺に対し、2万貫の矢銭と従属を要求します。

 

当時の堺は、大名に支配されていませんでした。

有力商人から構成される「会合衆(えごうしゅう)」が取り仕切る自治都市でした。

 

信長への従属を良しとしない会合衆たちは、信長への徹底抗戦の構えを見せます。

 

そこで、織田信長と会合衆たちの間を取り持ったのが、今井宗久でした。

 

結果的に会合衆は、信長に屈服することになります。

 

今井宗久のおかげで、信長は堺支配の足がかりを築くことができたのでした。

 

この後、今井宗久は信長から重用されることになります。

 

・堺近郊にある摂津五カ圧の塩や塩合物の徴収権と代官職。

・淀川の通行権を得る。

・但馬銀山の支配を任せられる。

 

などがありました。

 

また、茶人でもあった今井宗久は、信長の茶頭として文化面でも深い関わりを持つことになります。

 

周囲の会合衆が信長に否定的な中、今井宗久は早くから信長に従属していました。

先見の明があり、考え方も柔軟性がある人物なのかもしれません。

 

明智光秀の師匠だった

教養ある文化人としても知られる明智光秀。

光秀の時代、茶の湯が武将たちに人気となりますが、光秀も茶の湯をたしなんでいました。

 

そんな光秀のお茶の師匠が、今井宗久と津田宗及と言われています。

茶の湯に関しては、毎回光秀の茶会に参加するなどしていた、津田宗及のほうが関わりが深いようです。

 

今井宗久も光秀の師匠の1人だったと言われています。

 

信長の命を受けて、堺に行くこともあったであろう光秀。

信長の信頼厚かった、今井宗久とも関わる機会が多かったのではないかと思われます。

その際に、茶の湯に触れ、親しんでいったのかもしれません。

 

また、今井宗久は茶の湯を通じ、足利義昭とも接点がありました。

明智光秀は、信長に仕える前は足利義昭に仕えていたと言われています。

 

足利義昭を通して、今井宗久との接点を持っていた可能性もありそうです。

 

本能寺の変後の今井宗久

本能寺の変により、織田信長がこの世を去ります

そして、本能寺の変の起こした明智光秀も羽柴秀吉により、討たれました。

 

時代は秀吉の時代になっていきます。

 

秀吉の時代も、今井宗久は重用されていたと言われます。

しかし、秀吉は千利休をより重用していました。

 

そのため、今井宗久は織田信長時代のような権勢はなかったと思われます。

 

後に千利休は秀吉から切腹を命じられます。

 

利休が切腹した2年後、今井宗久は73歳の生涯を終えました。

 

さいごに

経済面、文化面ともに織田信長と深い関わりがあった今井宗久。

信長の天下取りを支えた1人と言っても良いかもしれませんね。

 

明智光秀の茶の湯の師匠の1人でもあったようです。

 

この時代の茶人としては、千利休が一番知名度があるのではないかと思います。

茶人でありながら切腹させられるという壮絶な最期を遂げた利休に対し、今井宗久は穏やかな晩年を送ることができたのではないかと思いました。

 

本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

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