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2020年大河ドラマ「麒麟がくる」でも注目の兄弟。
「細川藤孝(幽斎)」と「三淵藤英」。演じているのは、それぞれ眞島秀和さんと谷原章介さんです。
凜々しくて素敵な兄弟だなあと思い、毎週拝見しています。
実は、この2人の生き方を紐解いてみると、対照的な生き方をしていました。
細川藤孝(幽斎)と三淵藤英を徹底比較!2人の対照的な生き方とは?
ともに足利幕府の幕臣だった2人
細川藤孝(幽斎)と三淵藤英は母親の違う異母兄弟でした。
藤孝(幽斎)は養子に出ていましたが、2人は、ともに第13代将軍・足利義輝の家臣でした。
しかし、松永久秀と三好三人衆により、足利義輝が暗殺されてしまいます。
幕府再興のため、藤孝を藤英は後の将軍・足利義昭を京都から脱出させ、極貧生活の中、義昭に仕えていました。
織田信長との出会い
明智光秀を通じて、織田信長と出会います。
信長の後ろ盾を得て、足利義昭は再び、京に戻り、第15代将軍に就任することができました。
しかし、足利義昭と織田信長は次第に対立するようになりました。
この2人の対立が起きた時、弟・藤孝(幽斎)は信長側につきました。
兄・藤英は信長側にはつかず、義昭側についていました。
ここで、藤孝(幽斎)と藤英の兄弟は決裂することになりました。
三淵藤英のその後
信長方と戦うために、二条城に籠もっていました。
しかしながら、味方は信長の強さに恐れをなしたのか、どんどん退去していきます。
結局、最後まで残った主要な家臣は、三淵藤英だけでした。
このエピソードから、藤英の将軍家への忠誠心が伺えます。
結局、信長の大軍に包囲され、藤英は降伏することになりました。
弟藤孝(幽斎)同様、藤英も信長に仕えることになります。
その後、理由は定かではありませんが、藤英は信長に切腹を命じられ、自害に追い込まれています。
藤英が信長に仕えてから、切腹を命じられるまでの藤英の資料がほとんど残されていないそうです。
個人的には、藤英は将軍家の忠誠心が強く、何事も将軍家第一で考えていたのではないかと思います。そのことが信長から切腹を命じられることになった要因の1つではないかと思いました。
細川藤孝(幽斎)のその後
兄藤英と決裂し、信長に仕えるようになりました。織田家の重臣となる明智光秀の与力大名となり、軍事行動などを一緒に行う間柄となします。
また、明智光秀の娘・たま(ガラシャ)が藤孝(幽斎)の息子・細川忠興に嫁ぎます。そのことにより、光秀と藤孝(幽斎)はより関係性が強くなり、「盟友」と言われるようになります。
しかし、その後、本能寺の変が起きます。明智光秀による主君織田信長への謀反です。
本能寺の変のあと、光秀は藤孝(幽斎)に何度も味方につくように説得しますが、藤孝(幽斎)は応じることはありませんでした。
結局光秀は、羽柴秀吉に敗れます。
細川藤孝(幽斎)が光秀につかなかったことは、秀吉を大変喜ばせました。
このことが後の豊臣政権での細川家の安泰を決定づけることとなります。
再び歴史が動き、秀吉亡き後、徳川家康と石田三成の対立が起こり、「関ヶ原の合戦」へと繋がっていきます。
藤孝(幽斎)がついたのは、徳川家康側でした。
関ヶ原の合戦は家康側の勝利となりました。
またまた、藤孝(幽斎)は、歴史の勝者となるほうの人物を選択しました。
その後、江戸時代以降も細川家は残り、現代では総理大臣を輩出しました。
まとめ
はじめは、ともに将軍家家臣であった、細川藤孝(幽斎)と三淵藤英。
決裂後の兄弟の生き方が対照的だなと思いました。
それぞれ何を第一に考えるのかが違ったのかなと思いました。
兄藤英は 「主君への忠誠」
弟藤孝(幽斎)は「家を守ること」
だったのかなと思います。
こういった考え方の違いがそれぞれ、行動の違いに表れたのではないかと思いました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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