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あなたは、織田信長というとどんなイメージがありますか?
信長というと、古い権威に縛られない革新的な人物。
比叡山焼き討ちなどから、神仏も恐れない男。
キレ者で、天才的な人物。
というイメージがあります。
しかし、ここ近年は、信長の人物像は、これまでのイメージとは違った人物像ではないのか、ということが言われてきています。
これまでのイメージとは逆の人物像が浮かび上がってきました。
織田信長のイメージが覆る!革新的でも天才でもない真の人物像とは?
現在の信長のイメージはどのようにして作られてきたのか?
信長に仕えた太田牛一が記した「信長公記」と宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」が、信長のイメージ形成に大きな影響を与えたと言われています。
これらの資料は、信長研究において長年重要視されてきました。
しかし、近年は、実際に信長自身が書いた手紙等から人物像を探っていこうとする研究が進められているようです。
また、時代ごとに信長のイメージは変わってきています。
江戸時代には乱暴もの、明治期には天皇を庇護したとして評価が上がります。そして、戦後は革新的な人物、と時代ごとに変遷を遂げてきたといわれます。
それぞれの時代に応じて、イメージを変遷させながら、数百年かけて作られてきたイメージなんだと思います。
また、戦後の高度経済成長期には、日本史史上で最も出世した豊臣秀吉の能力を見抜き、出世させた人物ということで、信長自身の評価も上がっていったのではないかと思います。
新たに見えてきた信長の姿
実は権威主義者だった!?
信長と言えば、古い権威を否定し、新しいものをどんどん取り入れいったイメージがあります。
古い権威の象徴というと、「朝廷(天皇)」「将軍」というイメージもあります。
近年の研究では、信長はこの「権威」というものを非常に大事にしていたのではないか、と言われています。
これまでのイメージでは、古い権威の象徴である朝廷や将軍を否定し、ないがしろにしようとしていたとも言われています。
実は、財政難であった朝廷に経済的な支援をしたりして、むしろ朝廷の復活に尽力していたということがわかってきています。
信長は、足利義昭を上洛させています。
これも、従来のイメージでは、信長自身がのし上がるために義昭を利用しようとしていた、と思われてきました。
しかしこれも、武家の棟梁である「将軍」の手によって、天下(畿内)が穏やかに治められるよう、あるべき姿に戻そうとしていた、のではないかと言われています。
そのために、純粋に将軍に尽くそうとしていたのではないか、と言われ始めています。
信長は尽くすだけではなく戦の調停など将軍や朝廷にしてもらっていました。
信長がまだ若い頃、織田一族は内紛を起こしています。
その時、信長は尾張の守護の斯波家を頼っています。
斯波家の当主が信長と争っていた信長の身内に殺されてしまいます。
斯波家の当主の息子・斯波義銀は信長を頼ります。
尾張の守護(トップ)の斯波家のお墨付きをもらった信長は、反信長派の身内を滅ぼし、争いに勝利することができました。
信長は若い頃から、権威を大事にし、そしてその権力を利用してきました。
これは、信長だけが特別なのではなく、戦国時代というものが、権威に敬意を払い、そしてその権威から守ってもらう。
そういう時代でした。
信長はごくごく当たり前のことを忠実に実行していたようですね。
天才ではなく、努力家だった!?
畿内を治めたこと、天下布武のスローガン、各地の方面軍、そして桶狭間の戦いでの劇的な勝利…。
信長は戦に強いく、頭がキレていわゆる天才だからこそ、あそこまで上り詰めたイメージです。
実は信長は、真面目にできることをしっかり実行して、あそこまで上り詰めることができたようです。天才、戦に強いというわけではなかったようなのです。
信長の生涯は戦続きでした。
確かに、1つ1つの戦いを見てみると、結構危なかったり、苦戦したりしています…。
金ケ崎の戦いでは死にかかったり、石山本願寺とは10年も争ってたりしています。
その他にもいろいろありますが、結構負けたりもしています。
織田信長は、圧倒的に強かったわけではない、ということがわかります。
同時代の強いと言われた武将、武田信玄や上杉謙信には勝てなかった…。
というか、戦わないで済むように外交で頑張っていたようなのです。
武田家は、信玄亡き後に、勝頼の代で滅ぼしていますが。
上杉謙信とは、「濃越同盟」を結んでいます。
この同盟は、織田方だけが人質を出すという上杉家有利な同盟でした。
ここからみると、信長と謙信の力関係が見えてくるような気がします。
その後も信長は、贈答品を謙信に贈るなど同盟の継続に努力している様子がうかがえます。
このように相手に気を遣う信長って、あんまりイメージにないですよね。笑
信長は、強い相手と弱い相手を見極め、強い相手とは戦わず、できることをしっかりしていく、そんな実直な人物像が見えてきたような気がします。
神をも恐れぬ男だったのか!?
信長は神を恐れず、自らが神になろうとしたとも言われています。
無神論者だったとも言われています。
象徴的なエピソードとして、神仏を恐れる家臣たちが比叡山延暦寺の焼き討ちに消極的な中、信長だけは、「関係ない」といった感じで、焼き討ちを行ったと言われたりします。
信長は、寺社は攻撃しているけど、神社は攻撃していないと言われています。
無神論者のイメージも、実際は神道に精通していて、神主に作法を教えちゃうぐらいに詳しかったようです。
信長の家系を辿ると、神主にあたるそうです。
言われてみると、桶狭間の戦いの時に、熱田神宮で戦勝祈願をしていました。
あの信長も神頼みをするのだなと思うと、親近感が一気に湧く感じです。
そして、寺社への攻撃はしていましたが、あくまで自身の都合の悪い宗教のみ攻撃していました。都合の良い宗教は保護していたようです。
これは、信長に限らず、時の権力者というのはそんな感じですよね。
無神論者ではなく、神道を信仰する人物だったようです。
神を恐れず自分のだけを信じて突き進む人ではなく、しっかり神頼みする普通な?一面もあったようです。
まとめ
何者も恐れない超人というイメージの信長。
しかし、ここ近年言われてきている信長像を見ると、スーパーマンではなく、できることを着実こなし地位を築き上げていった、そんな実直な人物像が見えてくるような気がします。
ではなぜ、超人的なイメージになっているのかをわたしなりに考えてみると、やはり本能寺の変での劇的な最期が大きく影響していると思います。
志半ばで亡くなった信長。
もし、信長が生きていたらこうなっていたのではないか、など、様々な想像が膨らみます。
劇的な最期をとげた人物は、良くも悪くも評価が大きくなってしまうのではないか、と思いました。
わたしは、三英傑のなかでは、豊臣秀吉や徳川家康のほうが好きです。
しかし、近年言われ始めている信長が本来の信長であったとしたら、三英傑たちのなかで、織田信長が一番親しみやすいというか、親近感が湧くなと思いました。
本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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