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第106代天皇・正親町天皇(おおぎまちてんのう)。
戦国時代というと武将が目立ちますが、いかに朝廷(天皇)を味方にすることができるかも、天下人の資質なのでは、と思っています。
時の天下人たちと朝廷(天皇)は持ちつ持たれつの関係でした。
戦国時代の天皇・正親町天皇と同時代に生きた天下人・織田信長や豊臣秀吉は、どんな関係性であったのか簡単に解説してみたいと思います!
正親町天皇 簡単解説!織田信長や豊臣秀吉と渡り合った戦国の天皇
困窮していた朝廷
正親町天皇が即位した頃、朝廷はとても困窮していました。
どのくらい困窮していたかというと、「即位の礼」の儀式が執り行えないほど。汗
正親町天皇は、即位して2年間、即位の礼を行えませんでした。
その当時は、毛利元就の尽力で即位2年後、即位の礼を行うことができました。
戦国時代の3人の天皇は、亡くなるまで天皇の座にいました。
現代と違い、当時は存命中に天皇の座を次の天皇に譲ることは、通常のことでした。
しかし、戦国時代は天皇を退いた上皇が暮らす、御所を用意するお金がなかったため、亡くなるまで天皇の座にいたと言われています。
非常に厳しい経済状況のなか、正親町天皇は天皇となったのです。
正親町天皇と織田信長
織田信長の経済的支援
京へ上洛後の織田信長は、朝廷に対し、自身の経済力を武器に経済的な支援を行います。
信長は、朝廷最大のスポンサーのなったのです。
信長がスポンサーになれたことにより、信長にもメリットがありました。
それは、朝廷や天皇の権威を利用することができたのです。
朝廷や天皇の権威を借り、政治を動かすことができます。
戦がこじれたときなんかは、天皇の名で「講和の勅命」を出してもらったりしていました。
冷めた言い方になりますが、互いに利用価値のある存在だったのです。
正親町天皇と織田信長は対立していた!?
本能寺の変の前年、織田信長は正親町天皇の御前で、「馬揃え」を執り行います。
馬揃えとは、現代で言うところの「軍事パレード」です。
この馬揃えで、信長は正親町天皇に自身の軍事力を見せつけ、圧力をかけたとも言われています。
その圧力をかけた勢いで、正親町天皇に譲位(天皇の座から降りる)を迫ったとも言われています。
なぜ、譲位を迫ったのかというと、もっと信長が利用しやすい正親町天皇の皇子を天皇に据えたかったから、と言われています。
これが、天皇をないがしろにしたと言われ、朝廷黒幕説の伏線になったとも言われています。
一方で、全く正反対の説があるのです。
この馬揃えは、純粋に正親町天皇に喜んでもらうために信長がおこなったもので、正親町天皇は「また見たい」と大変喜んでいたという話もあります。
また、譲位を迫るどころか、むしろ信長は譲位に反対していた、という説も言われています。
正親町天皇自身が譲位を望んでいたけど、譲位後に正親町天皇が住む「上皇の御所」が無い状態でした。
御所を用意するには莫大な費用がかかるため、最大のスポンサーであった信長が、御所の造営に同意しなかったため、譲位が実現しなかったとも言われています。
また信長は朝廷に、自身を「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のどれかに任ずるよう迫ったとも言われています。
しかしこれも、朝廷のほうから打診があったけど、忙しかった信長が辞退したという説も言われています。
ここまで真逆の説が出てくるのもなかなか、面白いです。
個人的には、朝廷は最大のスポンサーである信長と対立はしたくなかったでしょうし、信長自身も「朝廷最大のスポンサー」という立場は、政治運営を行っていく上で重要であったと思います。
比較的、両者の関係性というのは良好であったように思います。
あまり、イメージにはないですが、織田信長は権威というものを大事にする人だったようです。
正親町天皇と豊臣秀吉
本能寺の変が起こり、信長はこの世を去ります。
そして、次の天下人となったのが、豊臣秀吉。
秀吉も信長同様、朝廷への経済的支援を行いました。
これにより、朝廷の財政はさらに回復します。
信長も実現できなかった「上皇の御所」も秀吉は造ります。
秀吉は、正親町天皇から「豊臣」の姓をもらい、これにより、「豊臣秀吉」と名乗るようになります。
そして、関白に就任。
関白とは、天皇の補佐役で、いわばナンバー2です。
秀吉も信長と同じように、経済的な支援により、朝廷からの権威を利用することができました。
当時の日本を実質支配していたのは秀吉ではありますが、形式上は秀吉の主君は「正親町天皇」ということになります。
このことは、朝廷の権威をより高めることにつながったと思います。
さいごに
即位の礼をあげることもできないくらい、困窮していた朝廷。
そんな時に天皇であった正親町天皇。
時の天下人である織田信長や豊臣秀吉との持ちつ持たれつの関係の中で、財政を回復させ、朝廷の権威を復活させることができました。
正親町天皇は、2人の天下人と上手く付き合いながら、戦国の世を生き抜いた天皇であったと思います。
本日は、ここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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