松永久秀のライバルで明智光秀を裏切った筒井順慶の悲しき最期とは?

歴史上の人物
Tumisu / Pixabay

どうもみやです。本日もお越しくださり、ありがとうございます!

 

あなたは筒井順慶という武将を知っていますか?

ものすごくメジャーな人物というわけではないかもしれません。

 

しかし、明智光秀や松永久秀といった人たちの人生に大きく関わってくる人物です。

 

松永久秀とは因縁のライバルであり、明智光秀とは盟友と言われながら、光秀を裏切ってしまいます。

そんな筒井順慶がどのような最期を遂げたのかは、あまり知られていないのではないでしょうか。

 

今回は、そんな筒井順慶についてのお話。

 

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松永久秀のライバルで明智光秀を裏切った筒井順慶の悲しき最期とは?

大和をめぐり松永久秀と争う

筒井順慶は大和の有力な国衆でした。

父親が若くして亡くなり、わずか2歳で家督をつぎました。

 

畿内を治めていた三好長慶の家臣として、松永久秀が大和に入ってきます。そこで、松永久秀と対立します。

松永久秀に居城を奪われてしまいます。

 

その後、筒井順慶は松永久秀と対立していた三好三人衆と手を結び、松永久秀に対抗し城の奪還を画策します。

なんとか、城の奪還に成功します。

 

その後も城を奪ったり奪われたりと松永久秀との争いは続きました。

 

そんなとき、織田信長が足利義昭を伴い上洛します。

 

筒井順慶は明智光秀の仲介により、信長に従うことになります。

 

松永久秀も信長に従っていたため、明智光秀や佐久間信盛の仲介で、筒井順慶は松永久秀と和睦をすることになりました。

 

和睦をしてもこれまで激しく争ってきた両者が、協力して大和を治めるのは無理があるような気がします…。

 

その後、松永久秀は信長に謀反を起こします。

筒井順慶は明智光秀のもと、松永久秀の討伐軍に加わりました。

 

久秀亡き後、信長から大和一国を任されることになりました。

こうして、筒井順慶と松永久秀の対立は決着がつきました。

 

順慶は、大和を治めていくにあたり、光秀の協力を得ていて、両者の関係性は親密なものとなり、盟友と呼ばれるようになります。

大和一国の支配を任された筒井順慶は、明智光秀にとっても重要な存在だったようです。

 

本能寺の変後は盟友・明智光秀には味方せず…

本能寺の変後、明智光秀は特に関係が深かった筒井順慶に、自分の味方になるよう誘っています。

しかし、順慶は光秀の味方には尽きませんでした。

 

結局、順慶は盟友・光秀ではなく、秀吉側に付くことになります。

 

光秀とは関係性も深く、恩もありますが、家名存続のためには光秀より秀吉についた方が良いと判断したと言われています。

 

しかし、順慶が秀吉のところへ参陣したのは、山崎の戦いの翌日でした。

 

順慶の参陣が遅いため、秀吉から叱責されます。この叱責が原因で、順慶は体調を崩したとも言われています。

 

こうした順慶のどっちつかずの行動が、後世では日和見主義の代名詞として言われています。

 

個人的には、順慶はかなり悩んだのではないかと思います。

しかし、光秀が行ったことは主君への謀反ということで、光秀に味方する大義名分がなかったのではないかと。

そして、同じく光秀の盟友の細川藤孝が光秀の味方につかなかったということも、筒井順慶の心理面に大きく作用したのではないかと思います。

 

しかし、光秀とは関係も深く、恩もある。

 

となると、反光秀として積極的に秀吉の軍に参陣することができなかったがための、遅い参陣だったのではないでしょうか。

 

筒井順慶の悲しき最期

光秀の死後、筒井順慶は秀吉に仕えることになり、大和の支配も引き続き認められました。

 

本能寺の変の2年後くらいから、順慶は胃痛を訴えるようになり、横になっていることが多くなりました。

 

そんな中、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いが起こります。

 

秀吉からの出陣要請があり、順慶は体調が悪い中、出陣をし転戦しました。

 

無理をしたことが影響したのか、戦を終え、大和に戻ると間もなく亡くなってしまいました。

 

まだ、36歳という若さでした。

 

現代より、平均寿命が短い時代とはいえ、まだまだこれからという年齢ではないでしょうか。

 

順慶のあとは、養子となっていた筒井定次という人物が跡をつぎました。

 

順慶の重臣に島左近がいましたが、跡を継いだ定次とはうまくいかず、筒井家を離れます。

 

この島左近はその後、石田三成の側近として活躍することになります。

 

まとめ

若い頃から大和の支配を巡り、あの松永久秀と激しく争ってきた筒井順慶。

 

本能寺の変後に筒井順慶が願ったのは、家名を存続し、大和を安定して統治し続けることであったと思います。

 

そのため、主君への謀反を起こした光秀には味方せず、秀吉に味方することを決めたのではないでしょうか。

 

しかし、これまでの経緯から、光秀には恩があり、なかなか割り切れない部分もあったと思います。

 

それで、どっちつかずの中途半端な行動になってしまったように思います。

 

しかし、そのことが秀吉の信頼を失い、同じような立場であった細川藤孝に比べると秀吉からの扱いはあまり良いものではなかったように思います。

 

晩年胃痛に悩まされていたと言われる筒井順慶。病名ははっきりしていませんが、胃痛というとストレスが影響していたのかなとも考えてしまいます。

 

本能寺の変後は、盟友だった光秀を裏切ったことや秀吉に仕えていく中でのストレスがあったのではないかと思いました。

 

そのストレスが、もしかしたら順慶の寿命を縮めてしまったのかもしれないな、とも思いました。

 

本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

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