上越の三大名城をご紹介!上越の発展の歴史がここにあった!

雑記

どうもみやです。本日もお越しくださり、ありがとうございます!

 

先日、上越の実家に帰ったときに、復元された高田城三十櫓と春日山城跡へ行ってきました。

これまであまり考えたことがありませんでしたが、上越には多くの城が築かれていたんだな、と実感しました。

 

今回行った高田城跡、春日山城跡の他に、海の方には福島城という城も築かれていました。

 

各城の変遷は上越の発展の歴史そのものでもあります。

 

今回は、上越発展の歴史に大きな影響を与えた三城を築城順にご紹介したいと思います!

 

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上越の三大名城をご紹介!上越の発展の歴史がここにあった!

春日山城

越後の英雄・上杉謙信公が居城したことでも有名な春日山城。

 

歴史好きの方は、県外からも訪れたりしているようです。

 

日本5大山城の1つとも言われ、山全体が城となっていて、難攻不落で1度も攻め落とされたことがありません。

 

築城の時期ははっきりしていませんが、南北朝時代にはすでに存在していたと言われています。

 

上杉謙信公が治めた頃は、春日山城下、直江津の港町を合わせ、京都に次ぐ人口だったようです。栄えていたことがうかがえますね。

 

その後、上杉景勝が会津へ転封となり、堀秀治が入城します。

堀氏より、港町直江津に福島城が新たに築城され、堀氏はそちらに移ることになります。

春日山城はその役目を終えました。

 

現在は城自体は残されておらず、城があった跡を散策することができます。

 

わたし自身は、過去に本丸跡まで登ったのは1,2回だったでしょうか。

本丸からは頸城平野、上越の街並みを見渡すことができ、とても良い眺めです。

 

春日山神社はたまに行きますが、謙信公のパワーをもらえるような気がしますね。お土産屋さんで、パワーストーン買っちゃいましたからね。笑

 

謙信公の銅像の近くにこじんまりしたお土産屋さんがあります。

こじんまりしてるんですが、置いてあるお土産はそそられますね。謙信公を始め、戦国武将がデザインされた様々なグッズが置いてありますので。

 

福島城

上杉景勝の後に越後に入った、堀秀治により築城が始められました。

 

秀治の死後、家督を継いだ堀忠俊の代の1607年に完成したとされます。

 

北は日本海、東は当時の保倉川、南には堀(現在の保倉川)、西は関川といった海と河口付近に築城された平城です。

 

現在は建物は残っておらず、上越市立古城小学校付近が本丸の跡だったと言われています。

 

この福島城建設により、春日山城下から多くの町人が移住したと伝えられます。福島城の築城が港町直江津の発展に影響したと思われます。

 

堀氏がこの城で過ごしたのはわずか、2,3年。

お家騒動により、1610年に改易となり、代わりに家康の六男・松平忠輝が越後の領主として福島城に入城しました。

 

忠輝公は、豊臣家の重臣・加賀の前田常利を牽制するため、堀氏の後に置かれたとされています。

 

1614年に松平忠輝は、内陸の高田に高田城を築城

 

福島城は、わずか7年という短い役目を終えました。

 

高田に城を築城することになった理由として、関川や保倉川に挟まれていたため、たびたび水害に悩まされていたと言われています。

 

その一方で、海の近くにあったため、「波の音がうるさくて眠れない」と忠輝公が言ったのが理由とも言われています。

 

高田城

松平忠輝公は、11614年に幕府の命により、高田城築城に着手します。

高田城の普請には、上杉景勝や前田利常といった有力な大名も駆り出されています。

 

普請のとりまとめをしていたのが、忠輝公の舅にあたる伊達政宗でした。

 

高田城は、高田平野の中央よりやや西に寄った地点に築城されています。

周囲の河川を利用し、外堀を形成しています。

 

高田城の築城に伴い、町人も移動し、城下町が形成されます。政治経済の中心は直江津から高田に移りました。高田も大きく発展を遂げることになります。

 

高田城下は、基盤の目のように町割りされています。

城は東に配置し、関川で囲いました。城の西側には家臣団の屋敷を構えました。

 

西側には、寺町を形成しました。現在でも60カ所あまりの寺が残っていて、日本でも有数の寺町と言われているようです。

 

 

高田城は、わずか4ヶ月で完成したと言われています。

なぜこんなに短期間で完成した背景には、大坂の陣を控え、東国の豊臣方の重臣への牽制、江戸の背後を固める、という理由があったといわれています。

 

完成を急いだため、天守閣が建築されず、石垣の代わりに全体に土塁を巡らせたと言われています。

 

明治になり、城は取り壊されることになります。

陸軍の第13師団の入城時に3,000本を超す桜が植えられました。これが、後に日本三大夜桜へとつながっていきます。

 

廃藩置県時には、高田藩の財政再建や士族救済を目的とし、地元の大地主が私財を投じて、城の外堀に蓮を植え,蓮根(れんこん)栽培事業が始められます。

蓮根栽培事業は戦後中断されますが、毎年蓮の花が咲く夏頃には、「蓮まつり」が開催されています。

この高田の蓮は、「東洋一」との呼び声もあるんですよ!

 

わたしが行った時は、あまり花が咲いていませんでした。↓↓

 

 

午前中に行きましたが、蓮の花は午後に閉じてしまうそうで、朝の7時から9時頃に行くのがオススメとのこと。

 

まとめ

上越の発展に大きく影響を与えたであろう三城の「春日山城」「福島城」「高田城」をご紹介しました。

 

越後の主の居城が変わるたびに、城下町や町人も移転します。城の変遷に合わせて、上越の地が発展を遂げてきたことがわかりました。

 

「郷土の歴史」

歴史というのは脈々と引き継がれ、現代に生きるわたしたちにも影響を与えています。

実際に自分が住んでいるところの歴史を知ることで、そのことをより強く実感できるのではないかと思いました。

 

本日はここまで。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

初代高田城城主・松平忠輝公については、こちらで記事にしてます。↓↓

 

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